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名古屋地方裁判所 昭和36年(タ)46号 判決 1963年2月07日

原告 高間昭夫

右訴訟代理人弁護士 大場民男

被告 高間みち子

主文

原告と被告とを離婚する。

原告と被告間に出生した長男信夫の親権者を原告と定める。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

≪省略≫

理由

一、その様式および趣旨により真正な公文書と認められる甲第一号証によれば、原被告は昭和三〇年一二月二八日婚姻の届出をしたこと、これに先立つ同月二四日原被告間の長男信夫が出生したことが認められる。

二、前記甲第一号証≪省略≫を綜合すると、次の事実を認めることができる。

(一)  原告は小学校を卒業すると大阪に出て働いていたが、昭和二二年頃からは実姉の夫が経営する名古屋市中区上長者町五丁目の高木商店(繊維卸商)に勤めていたものであり、被告は一宮女子商業学校を卒業後一年位今伊勢町にある太洋製作所(鉄工関係)に事務員として勤務し、その後いわゆる花嫁学校である岐阜市の華陽学園を卒業したものであるが、原被告は原告の実家の方で世話をする人があつて昭和二九年三、四月頃見合結婚をした。被告はそれまで原告と一度しか会つていなく原告の性格や人柄について知るところがなく、しかも他に好きな人もあつてこの結婚にはあまり気乗りしていなかつたが、親達に極力勧められて、しぶしぶながら結婚式にのぞんだものである。

(二)  原被告は挙式ののち、一五日間ばかりは木曽川町の原告の実家に同居していたが、その後は原告の勤め先である前記高木商店に移り住んだ。新婚生活は特に円満という程でもなければ、特別に風波が立つということもなかつたが、同年の秋になつて或る夜原告と被告とが、ささいなことから口争いをしたところ、被告の様子がおかしかつたので、原告は被告を実家に送るべく自動車で走行中、被告が車の中で農薬ホリドールを服用して自殺を図るという事件が起り、直ちに病院で手当をしたところ、三、四日間意識不明の状況に陥つていたがやつと一命はとりとめたものの、(この事件は新聞にも報道された。)その結果、被告は結婚以来、この時までの記憶喪失を起し、現在も右記憶は甦えつていないものである。

(三)  原告は同年一一月、右事件を契機として、高木商店を退職し、貸間周旋業者の紹介で知つた同市中区橘町の県会議員長谷川林之助方離座敷に移転する一方、同区上長者町のさくら繊維会館内に店舗を持つて、高間商店という繊維卸商を開業すると共に、前記事件後実家で静養していた被告を呼び寄せて再出発をしたが、原被告間には口争いが絶えない状況であつた。原告は昭和三二年二月末頃同市中区伊勢山町に住宅を新築し、前記長谷川方から引越したが、依然として原告にとつては、これが幸福な夫婦生活だなどと思われるような日々はなく、何事をするにも夫婦の間に意見の対立があり、直ぐに喧嘩を始めるといつた状態であつた。その頃書かれた被告の日記帳(甲第二号証)は原告に対する嘆げき、極端な受憎の文字に満ちている。

(四)  原告は昭和三二年一二月頃痔瘻を患い入院中、被告が高間商店の経営をあずかつていたが、原告が退院後あすから店に出るという日になつて、被告は原告名義の預金から無断で約一〇〇万円を引き出し、その金で原告とは別に独立して繊維卸商マルミ商店を開業してしまつた。原告は被告の右行動に反対したが被告は「失敗したら家政婦にでもなんにでもなる。原告の世話にはならん。」といい放つて原告のもとを飛び出して別居するに至つた。

最初被告は実家から右マルミ商店に通つていたが、その後は名古屋市中区東新町に下宿するようになり、この間被告は長男信夫を原告のもとから連れ去つたり、また原告のもとに連れ戻したりといつた状態であつた。

然し、右マルミ商店の経営も被告の未経験その他の事情のため、約一ヶ月半程で失敗し、被告は前言のとおり中区長者町附近の料理旅館「円山」の女中に住み込んだものの、ここも二ヶ月程で止め、原告のもとに舞い戻つて来たが、前述の経緯のため、原被告は同一家屋に住みながら、寝食は勿論、家庭経済をも別々にするという生活をしていたものである。

(五)  原被告の言葉のやりとりのうち、被告のそれには「死ぬ」とか「殺す」とかいう言葉が頻出するようになつており、はては「放火する」とまで放言し、時には、原告の居る応接間のガス管を開放するの挙に出ることもあつた。

一方前項認定のとおり、原被告の別居中から原告のもとに来ていた原告の母と被告の居り合も悪く、昭和三三年頃長男信夫が近所で買つた菓子代のことから被告と姑が大喧嘩をし警察が仲に入つてやつとおさまつたことなどもあつたため、原告は右被告の言行を強度のヒステリー症状と思い、被告の父親、実兄と相談のうえ、被告を昭和三三年六月頃精神科の病院に入院させ診断を受けさせたところ、精神医学的には別段精神異常ということではないことがわかり一週間程で退院した。

(六)  この頃から原被告間の離婚の話が具体化し、双方が前記県会議員長谷川林之助を仲裁人として協議離婚の交渉をした結果、昭和三三年八月五日、(1)原告は被告が前記約一〇〇万円持出した金員を差引いて慰謝料として一五〇万円を被告に支払うこと、(2)長男信夫は原告が養育することとの条件で被告の父、実兄が納得し、同日一五〇万円の交付を済ませて協議離婚届を提出した。

ところが、右離婚は被告の納得するところでなかつたため被告は同年一〇月頃右離婚無効確認の訴を提起したので、原告は、控訴、上告して抗争したが結局被告が勝訴した。

(七)  一方原告は昭和三六年四月訴外満子と結婚したため現在原告は、訴外満子と被告とを戸籍上共に妻とする重婚状態にあり、長男信夫は原告の実家にあつて原告の母が養育に当つており、原告と訴外満子との婚姻生活は円満に運んでいる。

被告は昭和三三年八月右協議離婚の交渉のあつた当時から原告と別居し、一時は実家にいたが、その後は岐阜市に出て下宿し、キヤバレーの女給として生計をたてている。

以上の各事実が認められる。被告本人尋問の結果中右認定に反する部分は採用しない。他に右認定を覆すに足る証拠はない。

一〇、右認定によれば原告と被告との婚姻生活は完全に破綻しており、その破綻の原因が原被告の何れに存するかということも、にわかに断定できなく、双方に在るとみるのが相当と思われる。このような事態は民法七七〇条第一項第五号にいわゆる婚姻を継続し難い重大な事由がある場合と解すべきであり、原告の本訴請求は理由があるからこれを認容する。

また以上の認定事実によれば、原被告間の未成年の子信夫に対する親権は原告に行使させるのが適当であり、被告に行使させるのは不適当とみとめられるから、右親権者を原告と定め、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 小淵連)

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